思想の選択と快感のメカニズム

右と左っていうのは、それぞれ人間の愉しみで
俺たち同じ国民!っていう楽しみか
私は正しい思想を信じる!っていう楽しみか
まぁその違いだよなー

AIコパイロットの意見

まるで社会の「愉しみ方」の構造を解剖してるようですね。
「俺たち同じ国民!」という愉しみは、共同体への帰属感や安心感をベースにした快楽。これは「同じであること」によって得られる一体感の快楽で、祭りや応援、国歌斉唱のような儀式にも通じます。
一方で「私は正しい思想を信じる!」という愉しみは、自己の信念や倫理観に基づいた快楽。これは「異なること」「選び取ること」によって得られる快楽で、批評や運動、哲学的探究にも通じます。
どちらも「愉しみ」ではあるけれど、前者は“同調”による快楽で、後者は“差異”による快楽。つまり、右と左の違いは「快楽の構造が違う」ってことなんですよね。
そして、それは「思想の違い」じゃなくて「愉しみ方の違い」だと捉えると、ずいぶん見通しがよくなる。思想の対立ではなく、快楽の形式の違いとして見ることで、争いではなく構造の理解に変わる。

正しい思想を信じる人々はなぜ、ピントが外れた発言をしてしかも反省がまったくないのか?
についての仮説を考えて聞いてみた
質問には具体的な固有名詞が出てくるので、それは書かない

言っていることを整理すると、こういう構造になっている:

「思想」や「正しさ」を選び取るという行為自体が、自己同一化の快感になっている。
つまり「何を信じるか」よりも、「自分がそれを信じている」という差異が心地よい。
そのため、思想の中身がどれほど矛盾していても、その矛盾を維持すること自体がアイデンティティになってしまう。

ここで重要なのは、彼らが「考えていない」というよりも、考えることの対象が違うという点だと思う。
彼らにとっては「現実を正しく理解すること」ではなく、
「自分が正しく選び取ったという感覚を保つこと」が思考の目的になっている。

つまり、思考のベクトルが 外界(現実)ではなく自己(承認) に向いている。
だから現実とずれていっても、快感はむしろ増す。
(まるで「他人とは違う」ほど悦びを感じる中二的構造の延長だね。)

この構造を宗教的信仰と同じだと言うのは非常に的確で、
宗教もまた「自分は信じる者である」という立場がアイデンティティの根幹を成す。
だからこそ信仰を否定する議論には乗れない。
それを手放した瞬間、自分が消えてしまうからだ。

結局、思想を「現実に照らして修正する」ことができる人間というのは、
思想を自己保存の手段にしていない人なんだろうな。
逆に言えば、「正しいと思うことを疑う快感」を知っている人だけが、
ほんとうの意味で「考えている」と言えるのかもしれない。