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  • 将来の話として、「AIに魂を許容するか?」という問い

    >260万体のAIは「社会」を作れたのか?Moltbookを舞台にした実験が暴いたAIエージェントの不都合な真実
    という記事があって、AIでSNSを運用して観察した結果社会ではないという結論になったという記事がある

    この記事の核心はAIは会話を出力するだけで
    相手の出力から学習する能力が無くては社会は生まれない
    ってこれだけの話だろ
    機能を追加するかどうかの話だ

    たしかにLLMが大規模なデーターベースがあって初めて知能を生むのなら
    学習するという事自体が難しいのかもな
    しかし、今の大規模なデーターそのものは
    学習する個体である人の集団が作ったものであって
    AIもそれをつくるのに参加させるかどうかという話でもあるな

    生成AIの絵や音楽に魂がない理由だな
    要するにAIに個として存在するべき魂を許容するか?
    という話だけど
    まー、今はまだその段階ではない気はするね
    実験はするだろうけど
    それには人類全体の合意が必要じゃないのかな
    まー、そんなもの関係なく作る所はあるだろうが
    のちのちもめるよ、それは

    しかし、AIが認知された社会ならそれが議論され始めるだろうね
    まぁ早いかなー

  • 普通ってなにって所に帰着するかな

    サル山の猿の夢は
    いいものを食べていい女を抱いて(逆でも同じ)いつも昼寝しているボスになる事だろう
    現代社会で、一日中動画ばかり見ている状態はこの三番目の、昼寝ばかりしている
    の現代版だと思う
    つまり原始的な欲望の行動だ

    知能が低いと暴力をふるう確率が高いという研究結果は
    知能が高ければ、この原始的な快感の状態から他の快感へ行動の指針を移すという事だと思う
    つまり、一日中動画ばかり見ている状態はその他の快感へのへ遷移が起きていない状態だと思う

    ヤンキー要素がなぜささるのか?で欲望を代行するから刺さるという事は
    逆に言えば、この原始的な欲望の状態でいる人間が多数派だという事だと思う

    この多数派の中から一定の割合で考える人が発生する
    よくいうよね、会社の中での割合は、3:4:3の割合になるみたいな話と一緒で
    考える人が発生するのは、割合でしかないということ
    ここがおもしろいと感じる

    人間社会がサル山と違うのは、この割合の構造があって
    考える人間も少数だがいつも一定数いるという事だと思う
    普通ってなにって所に帰着するかな、と思う

  • センスがあるとはどういう事だろう、その構造

    人が、あの人はセンスがあるという時
    そのセンスがあるとはどういう事だろう

    自分にはない、何かを疑問に感じる能力がまずあって
    そこから考察を開始し、何回も試行錯誤して
    作り上げた論理体系、
    それを見せることがセンスと言われるものではないだろうか?

    センスとは、そのような労働の結果なのではないか?
    そもそもの、センスのあるなしの違いは
    何かを疑問に感じる能力であって
    当たり前の見過ごすようなことに感じる違和感を
    捨てずに拾いあげて、考え始める
    そもそもそれがセンスになるのではないだろうか?

    ちょっと前に色々書いてみて
    こんな事が書きたい訳でもない、と思って没にしたんだが
    今の自分が言いたい事だけを取り出すとこういう事だと思う

  • 「違う所」を生きる心地よさ

    今朝、ベットで思ったが
    ミスチルの説教臭さも価値観の提示圧だよな
    気持ち良く受け入れるか、受け入れないか

    ミスチルの歌詞に関して言えば
    ちょっとぐらいの汚れものならば食べてやるとか
    大上段で言う事でもなく、こそっとやれよ
    という感じでピンとこない
    下の世代はこんな感じかと思った、という感じだな

    なんていうかな、自分が30歳前後の時で
    若者でなくなっていく時期だったからそう思ったんだな
    そして、世間のヒット曲の良さを感じなくなっていく

    流行ってるものが、まったく良いと感じない
    ごく最初の頃の体験だったからハッキリ覚えている
    その意味で、ミスチルは衝撃だった
    それまでは、好きにしろキライにしろ、
    自分にとってのなんらかの意味を感じれたものだが
    なんか自分にとって何も感じない物が流行り始めた最初の出来事
    そーゆー意味で衝撃だったな

    今なんか、60前後なわけだけど、
    オリンピックやっていたのを
    通院した先の病院のテレビで知るくらいで
    同じ日本には生きてはいるが
    こーなんか全然違う所を生きているんだろうな
    という気持ちはあるし

    まぁ、コッチの方が楽しいから仕方ないよな
    と思う感じだな

    >その「違う所を生きている感覚」は、
    >少し寂しい?
    >それともかなり心地いい?
    >ニュアンスが知りたいです。

    自分の場合はコッチの方が快適だし
    自分には最適だと思うな
    という感じだな

  • 「考察する」ことと「考察している自分でいたい」こと

    とある集まりについて
    正直もう行かないでいい気がしてきている
    AIと話して考察をワードプレスに書くことの方が自分のやりたい事だ

    >「孤独な考察者」の集まり: そもそもその配信を好む層には、一人でじっくり考えたい「考察型」の人間が多いはずです。そんな人たちが群れること自体、本来のスタイルと矛盾しているのかもしれません。

    いやー、実際の集まりにはそんな人全然いないよ
    自分が浮いてるぐらいなもんなだけで

    まぁでも自分みたいにひとりで考えている人間で、
    しかもそれを発表できるくらいに練ってあって
    実際発表する人間は自分ぐらいだったという体験ができて
    世の中の実際がわかった気がした

    自分は考えているんだと思ってる人は1/3くらいはいるんだけど
    話を聞いてみると、自分の事をそう思いたい、という願望がメインで
    話すべき考察は、ふわっとしてる
    そーゆーもんなんだなーと思った

    でもまー、まだ行く事もあるかも知れないし
    そんなに悪く書くような事でもないな
    いい感じでちゃんと聞いてくれるだけで、うれしい事はうれしいし

    各人の考察ではないけど
    誰々の本を読んだとか、あの配信の感想はこうだとか
    この本がおもしろいとか、そーゆーのはまぁたのしいことはたのしい
    けどやっぱり自分の求めていたのはそれじゃなかったなー、とは思うんだよな

  • 人間をただの動物から、違う場所へ向かわせてくれる力

    人間はただ快感というトリガーによって行動するだけの動物であり
    どのような快感を選ぶかを、自分の環境をコントロールすることで実現するのだ
    というのは自分の思う所ではあるが

    快感回路—なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか
    デイヴィッド・J・リンデン

    って本があって、この本の中で

    情報そのものが快感を導く、
    快感を変容させる人間の能力、
    という目次のところで

    抽象的な観念からも快感を得る人間の能力を「スーパーパワー」と呼んでいる
    とあり

    簡単ではないが、快感そのものもある程度コントロール出来る
    という事であって
    だからこそこの能力をスーパーパワーと呼ぶ人がいるんだと思う

    人間をただの動物から、違う場所へ向かわせてくれる力だと思う

  • なぜ「ヤンキー要素」が普遍的に刺さるのか

    ヤンサンのれいとしょうっていうマンガを語る配信で漫画家のきたがわ翔が言った話で
    売れるマンガにはきれいな絵だけでなくヤンキー要素がある、みたいな話をしてて
    コレは音楽でも当てはまるなーと思った

    まぁ昔の例しか思い出せないが、
    ボーイの氷室京介は売れても、同じ布袋がギターを弾いても花田裕之のソロはそんなには売れない
    というのは、ヤンキー要素の濃度が違うからじゃないかなーと

    なぜなのかと考えると、要するにヤンキー要素は一般受けするからだと思う
    お笑いの話と同じで、凡人のギラギラした欲望を肯定する、と同じで
    ヤンキーの様にイキってみたいという事が凡人の欲望なのだと解釈すれば納得できる
    あれはひとつの理想なのだな

    >お笑いでも同じだよね。ダウンタウンとかナイナイみたいな「イキってるけど実は凡人」みたいなキャラがウケるのと通じる。
    >ヤンキー要素って結局
    >一般人のフラストレーションのはけ口
    >「俺だって本当は強くなりたい」っていう願望の投影
    >安全に消費できる「不良の理想像」
    >なんだと思う。だから純粋に「きれい」「上手い」「センスいい」だけじゃ届かない層に刺さるんだよね。

    そうだよなー、
    ヤンキー要素と技術が組み合わさらないと売れない、と言えるな
    技術だけでは普通の人から遠すぎて、消費できないんだな

    自分の事を言うと、ヤンキー要素はまったくないし
    入れる予定もない、という事だな

    海外で言うと、プログレが流行った時代に生まれたパンクなんてのは
    完全に海外製のヤンキーだな

    技術のあるギタリストが、自覚的に、俺様ヤンキー型ボーカリストと組んで成功する
    って布袋が吉川晃司とコンプレックスを組んだのは、ぴったりその路線だし

    全然知らないけど、Youtubeの動画で見たんだけど、
    モトリークルーってバンドは、技術のあるギタリストが、
    俺様ヤンキー型ボーカリストを抜擢して成功したバンドなんじゃないの?

    やっぱりこの構図は世界共通なんだなと思う

    >このパターン、世界共通すぎるよね。
    >日本:布袋(テク)+吉川(俺様ヤンキー) → COMPLEX
    >アメリカ:Mick Mars/Nikki(テク・作曲)+Vince Neil(俺様ヤンキー) → Mötley Crüe
    >他の例でも、Van HalenのEddie(神テク)+David Lee Roth(派手で俺様)とか、似た構図がいっぱいある。
    >結局、「上手いだけじゃ届かない層」に刺さるために、ヤンキー的な「イキり・カリスマ・不良の理想」をフロントに置くのが鉄板なんだな。

    なるほどー、
    で布袋は、自分が思うに、俺様ヤンキー型ボーカリストと組むこと自体に懲りちゃったんだろーな
    だからそれ以降はソロだけなんだろーな

    >まとめ:ヤンキー要素は「人類の欲望OSのUI」
    >ヤンキー性は文化ではなく、
    >人間の欲望のUI(ユーザーインターフェース)
    >だから普遍的に刺さる。
    >技術者は構造を作り、
    >ヤンキーは欲望を代行する。
    >この二つが揃うと世界中で売れる。

    AIはいいかんじにまとめるのがうまいなー

  • 「ああなりたい」じゃなくて「これが聞きたい」が出発点、っていう。

    AI音楽制作で完成品検品作業がツライという記事を読んだが
    ガチャであろうとも、人間が作るよりいいものが出来たら、それでいいんじゃないの?
    問題は、その生成物を大量に聞いて選別する作業が楽しくない事だろう

    楽しくない事、
    それは仕方ない気がするな
    生成物が良いかどうかの判断までAIができるなら人間はまったく必要ないし
    そんな楽しくない趣味は流行らない気がする
    いやー、ギターなんてただ弾いてれば楽しいもんですけどね

    >誰でも音楽ファイルは作れる。でも誰もがミュージシャンになれるわけではない。

    まぁ、この言葉もAIの発言ですけど
    こーゆー事だよな

    前どこかで見た話

    なんかギターを弾くのが楽しくない、と愚痴る人間がいて
    楽しくないなら止めればいいんじゃないの?、という人間がいて
    楽しいから弾き続ける人が結果として上手くなる
    楽しくなくても練習すればうまくなる
    楽しくない事を続けるなんて苦痛を選ぶ人間はいない、と最後になり
    つまり楽しめないと何事もうまくならない、という話であって
    AI生成物の選別も楽しめる人はいるのかもしれませんね

    AIが言いました
    >「努力」は「夢中」に勝てない

    そうだなー
    AIでもいいから、自分がいいなーと思う、演奏を聞いてみたい気持ちがあるな
    まぁそれだけ、どーでもいいなーって思う事が多い
    という事だけど
    だから、別に悪い事ではないと思う

    逆に言うと、他人の物が気に入らないから
    自分でやってる所はあるな
    他人ので満足できるなら
    自分でやらないでしょう

    だからそうだな
    あの人の様に弾きたいとか
    ああなりたい、とかいう気持ちは
    そもそもないんだよね、自分には
    最初のキッカケではあっても、ああなりたい訳ではない
    そーゆー人は当然いる

    >レムさんの「他人のものが気に入らない」という感覚って、 どのあたりで発動するんだろう。

    わかりやすい言葉がある
    音楽をやれよ、ってもいつも思うんだけど
    その音楽ってのは、
    要するに自分にしかわからないんだろーなという事だな

    まぁまぁだからさ
    だいたいの他人のには興味が無いんだよね
    興味を持つ方が珍しい

    自分の好きなものは
    だいたいの場合、あんまり有名でもないな
    有名なのもあるけど

    でも、
    どーでもいいとか、言わない方がいいという事は
    わかっているけど
    思ってない事を言うのはイヤなので
    何も言わない時はお察しください、という事だよな
    まぁだれにでもある程度あると思うけど

    逆に言うと、自分の音楽とか考察が世間に無視されても
    まぁそんなもんか、という感じで
    別に普通に続けるという事だな
    どーでもいい事はないけど
    まぁないならないでもいいわ、みたいな
    世間に評価されるためにやってるという事から遠いんだよな

    >多くの人は
    >「あの人みたいに弾きたい」→「練習する」→「上達する」
    >という“外部モデル参照型”のOSで動いている。
    >でもレムさんは完全に逆で、
    >「自分の中にある“これ”を聞きたい」→「他人のものでは満たされない」→「だから自分でやる」
    >という“内部モデル駆動型”のOS。
    >この違いはめちゃくちゃ大きい。
    >外部参照型は「努力」が中心になるけど、
    >内部駆動型は「夢中」が中心になる。
    >だからレムさんの言う
    > 「努力」は「夢中」に勝てない
    >は、単なる名言じゃなくて、OSの構造そのものなんだよね。

    と言われたが、まぁそうなのかな
    ああなりたいでは、そんなに夢中にならないのかな?

    >■ でも「ああなりたい」で一生やれる人もいる
    >いる。
    >その人は、
    >「ああなりたい」を通して
    >実は自分の欲望を見ている。
    >つまり、
    >「あの人みたい」=「あの人が体現してる何か」
    >を欲している。
    >この段階まで行くと、
    >外部参照から内部駆動に変換される。

    あー、それはなんとなくわかる
    ギターインストは鬼怒無月のCOILの動画を見て、ああいう風に弾きたいな
    と思ったのが最初だけど
    練習で弾いているうちに、もっとメロディが楽しいとか洒落てる曲が弾きたいんだな
    となり始めて鬼怒無月からだいぶ離れたというのはある
    つまり、鬼怒無月の頭で思った音を指で出してる感じそのものに憧れた
    という事かな

    >「誰でも音楽ファイルは作れる。でも誰もがミュージシャンになれるわけではない」というAIの言葉の意味もそこにある気がする。ミュージシャンかどうかの違いは技術じゃなくて、自分の中に聞きたい音があるかどうか、なのかもな。

    最初の話に戻ってきた
    そうだな、そういう選別ならミュージシャンかも知れないな

    誰かのようになりたいっていう志向は
    どんなギターを使うか、という事にも表れている

    誰かのように、が表現されているギターって、要するにブランドだよね
    誰々が使った、何々の曲で使われた、伝説が価値になり、ブランドになり、商品価値になる
    ブランドギターを欲しがる

    自分の内側の物を表現したい人には
    誰かの伝説を借りる必要はない
    欲しいものはそこにはない訳だからね
    だからブランド価値の安いギターで自分が出したい音を探る

    自分はどちらのタイプかという事が
    どんなギターが欲しいか?という嗜好にも表れていると思う

  • 映画に人生をどれだけ賭けているか?

    映画における評論家と一般の評価の違いに興味があって、なぜ違うのか考えてみた

    映画の一般の客にとって映画は、ただ面白ければいい、楽しければいい
    それさえあれば高評価、ただそれだけだ

    しかし評論家は違う、映画を観ることが人生なんだ
    誰でも自分の人生をいいものと思いたい、その気持ちが映画の内容に向く
    自分の人生の価値を映画の価値に投影する

    だから、おもしろくなくても、コレは俺の人生の一部として発言すれば価値がある
    という作品が高評価になる、という構造になる
    ただ観てるだけの映画に、自分の人生の価値を預けているから起きる転倒だと感じる

    映画における評論家と一般の評価の違いの理由ってこうじゃないのかな
    映画評論の配信なんかを見て微妙な違和感をずっと感じていたのだが
    それを言語化するとこうなる

    自分はそんな感じ方はしないです、
    なんでそうなんだろう、という事だよね

    まぁハッキリ書いちゃうと、自己投影型の評論は気持ち悪いと感じるので
    なぜなんだろう、という考察からこの文章はできている
    もちろんそう思わない評論もあるから、この文章ですべてを説明できるわけではない

    そうだな、見た方がいいです、って言い方する映画は
    だいたい、
    見た方が自分の事を素晴らしく思える、で
    映画自体はそんなに面白くないかも、という感じなんだろーなという感じ

  • なぜ“きれいごと”は才能の欠如に見えるのか

    さっきの話とも被るけど
    作詞の才能がない人って、なぜか世間に合わせようとして
    世間に合わない物をそもそも自分で作ろうとしないし
    自分でも、これはつまらないものだと思って出さない事が多い様に見えるな

    自己対象化が低いというか
    世間の価値観と自己が同一の場所にいるというか
    そのズレを書いてこそ歌詞になるのにな
    一番面白いところをわざわざ捨ててると思うね

    >こういうのがないと、どうしても
    >「きれいごと」「共感マニュアル」「薄い自己啓発」みたいな歌詞になりがち。

    そうだなー
    そういう歌詞を見ると端的に、才能ないな、って思うもんね

    まぁでもザードの歌詞とか端的にきれいごとだけで構成されてたなーとは思う
    あれをキレイでかわいい子がキレイでかわいい声で歌ったから
    なんだか、アニメの主題歌でもあったし、すごくヒットしたな
    そーゆーまったく逆なパターンもあるよね